あきちの学校のこと


2022年春から、毎週わが家の居間を開放して、子どものための学びと遊びの場「 あきちの学校」をひらいている。

「ひらいている」といっても、ぼくは主催者ではなく、お手伝いをしているだけ。活動の中心にいるのは不登校の子、学校に行きづらさを感じている子どもたちだ。

朝10時、手製の看板を玄関先にだすと、ポツポツ子どもたちがやってくる。

午前中は、ことばや表現と遊ぶ「つづりかた」、数やしくみのふしぎを探求する「そらばん」のどちらかに取り組む。一見すると勉強っぽいが、ふつうの国語や算数とはだいぶ違う。入口は詩や数学でも、おしゃべりしているうちに子ども哲学のような対話に発展し、話は脱線につぐ脱線、子どもたちの雑談が縦横無尽にとびかうゆかいな時間となる。

お昼は、みんなでご飯をつくる。生地から練ってオーブンでピザを焼いたり、うどんをうったり、未知なる外国料理にも挑戦したりもするが、ご飯と具だくさんみそ汁だけというシンプルな日もある。なにをつくるかは、みんなで決めて、調理して、配膳して、食べて、片付ける。包丁をはじめて触るような子もいるが、大人は極力手をださない。

午後のプログラムはその日によってかわる。みんなでやってみたいことリストがあって、それを順番にやっていく。ピタゴラスイッチづくり、文字づくり、漢字ビンゴ、ラジオDJごっこ、楽器づくり、糸かけ、裁縫、仮面づくり、切り絵、コラージュなどなど、並べてみるとまったく脈絡がない。ときどき、プールや山遊び、アイススケートや焚き火など屋外での活動もある。

夕方16時半にはおしまい、ということにはなっているが、時間通りに終わったためしはない。17時、17時半、ときには18時まで、子どもたちが集中していれば、時間はどんどん延長される。もちろん、途中参加、途中離脱は自由。やりたくないことはやらなくてもいい。人の邪魔にさえならなければ、気ままに過ごすこともできる。

この記事を書いている2024年春現在、小学2年生から中学3年生まで、5~6人ほどの子が参加している。見守る大人はぼくと妻。そこに参加者の親がくわわることもある。

……と、ここまで、「あきちの学校」の活動について、ざっくりと書き連ねてみたが、どうもうまく伝えられる感じがしない。

この場所のなんともいえない居心地のよさ、ふるえるような気づきの数々、学びと遊びのなかで子どもたちの火花がスパークする瞬間……それらは矛盾とカオスが渦巻いて、広告のコピーのように一口には表現できない。

そういえば、この活動に興味をもった大人がぼくらの様子を覗きにきて、
 「たのしいし、おもしろい活動だけど、なんとも説明しにくいですね」
 と感想をいわれたことがあった。

居場所といえば居場所だし、オルタナティブスクールといわれれば、それに近いこともやっているが、どのことばもあてはまらない気がする。その日、その日、参加してくれた子どもたちによっても、この会の表情はがらりとかわる。

「あきちの学校ってどんなところ?」
と参加者の子どもたちにきいたら、落ち着ける、いそがない、これやれあれやれっていわれない、実家みたい…といろいろな声があがる。みんな実家からきているはずなのに、「実家みたい」っていうのはおかしなかんじがするけれど、それだけリラックスしてくれているのかな、とポジティブに受け取ることにする。

「あきちはからっぽ、なんでもできる」

あきちの学校のウェブサイトにかかげられたこの短いことばは、わたしたちの旗印みたいなものだ。からっぽの自由のなかで、それぞれの役割や、持ち味がでてくるといいな、とおもう。


あきちの学校 世話人
矢萩多聞